『何度も心折れそうになったり悔し涙を流したこともありましたが…』 慶応義塾大学 明治大学 他 合格 2023年合格体験記

Sちゃん。

Sちゃんは、美人さんで、ちょっと近寄り
がたい雰囲気だからでしょうか?一見そうは
みえませんが(ごめんよー!!)
ものすごーくいい子です。

人のためにいろいろ考えていて、自分が
悩んじゃうようなところがあります。
もー、Sちゃんったら、人がいいん
だから!と私が思うようなまじめないい子
なんです。

「うちの娘を眞上さんのところに
 お願いしたいんだけど」

そう言って、彼女のお父さんから電話を
もらったのが始まりでした。彼女が中学生の
時のことです。お父さんとは、元々ある団体で
一緒に活動していたので知り合いだったの
ですが、特別親しくしていたわけではありま
せんでした。

「わかりました。うれしいです!
 頑張ります!!」
と答えながら、

娘さんを預けてくれるなんて、
どうして私をそんなに信じてくれたんだろう…

と、ちょっと不思議に思ったのを覚えて
います。Sちゃんのお父さんは、
おしゃれでかっこよくて、そのために私が
ちょっとビビっていて?!話しかけづらかった
からかもしれません。

現役の頃、Sちゃんは英語や日本史の
覚えものが仕上がらずに、よく悩んで
いました。

彼女は高校入試では志望校に合格し、
自分はやれるはず、と自信を持っていた
ところがあると思います。
でも、大学入試レベルの覚えものの量に
なると、すべての科目で高校入試の10倍に
なりますから、そう簡単にはいきません。
中学の時は、自分の方が当然成績が
よかったような他の生徒さんに毎回毎回
ボロボロに負け続けるのです。元気が
なくなっていく彼女の様子を見て、私は
心の中で、気の毒に思い、勉強をやめないと
いいけどなあ・・・と心配していたほどでした。

「先生、私は勉強しているんですけど、
 覚えられないんです。どうしたらいい
 ですか?」

と思いつめたような表情で私のところによく
来ていました。

こうしてみたら?
ああしてみたら?

といろいろな勉強方法を説明しながら、
いつも私は言っていました。

「でもね、Sちゃん。最終的には
 できるまでやらんとだめなんだよ。
  泣きながらでも、とにかくできるまでやる!
 それができるかどうかなんだよ。」

素直な彼女は、目に涙をためて、ちょっと
不安そうに
「はい、頑張ります」
と言って帰っていきました。

受験を前にしたある日、私は彼女が参加
していた授業で次のように話しました。

できない自分をちゃんと認めること。
そこから本当の勉強は始まるんだ。

「本当は、私はもっとできるはず。」
「今は成績がよくないけど、ちょっと
 どうかしたら、私はすぐできるように
 なるはず。」
なんて言ってるうちはダメだ。

今できなくてもいいじゃないか。
ここからひとつずつ、積み上げていけば
いいんだよ。
今の自分を認めることは恥ずかしくない。
むしろ、それを認めずに、自分を過大評価
して逃げていることが恥ずかしいんだ。
ダメな自分を隠さず、さらけ出して、始める
んだ。実は、それができれば、ずいぶん楽に
なれるんだよ。頑張れるようになるんだ。

実は、私はこの話をSちゃん一人に
むかって話していました。

Sちゃん、あなたにわかってほしい。
ここで変われるかどうか、それがあなたの
人生を決めるんだよ。

この話を聞いている時の彼女の目を
私は今も覚えています。
「先生のさっきの話は、まるで私のことだと
 思いました。私は本当に変わりたいと
 思うんです」
と言ってきてくれました。

そして、浪人が始まりました。
リトルの浪人は大変です。
ただ授業に出ているだけでは、頑張っている
ことにはならないのです。
一週間ごとに一人一人に合わせて計画を
たて、それに従って毎日テストがあり、先生が
直接採点するので、昨日どれだけ頑張れたか
(知識がつけられたか)が明らかになるから
です。

Sちゃんは、ずうっとじーっと勉強しま
した。もちろん、できたりできなかったりは
ありましたが、嫌になって投げ出すことなど
絶対にありませんでした。現役の時とは違い、
安定した気持ちで勉強できていたのでしょう、
成績もぐぐーっと上がっていったのです。

そして、受験校もだいたい決めて、
「Sちゃん、今年はいけるかなあ」と
私が心の中で思っていた12月のある日の
ことです。

毎日休むことなく来ていたSちゃんが、
連絡もなく来ませんでした。

あれ?どうしたんだろう、体調でも悪いの
かなあ。

と私は不思議に思いました。

そして、彼女のお父さんが突然
亡くなったんだということを知りました。

私は彼女に電話をかけました。

Sちゃん、こんな時に、私には何も
できないってわかってる。
でもね、助けたいよ。私はSちゃんを
助けるよ。何でもするよ。

「ちょっと落ち着いたら、また頑張ろう」なんて
私は言わないよ。こんな大変なことがあって、
落ち着くなんてないだろうし、ワンワン
泣きながらでもいいんだ。とにかく勉強しよう。

Sちゃんは泣きながら、でもしっかりと
話ができて、大人でした。

今考えると、我ながらすごいことするなあ、と
思いますが、私はお葬式の時に彼女に
テストプリントを持っていって、
「勉強を続けなさい。これを帰ってからやるんだよ。
解いてからちゃんと私に送ってくるんだよ!」
と言って渡したのです。

誰にもどうしてもあげられない哀しみの中で
あっても、なんとか最後までやり遂げて
欲しい。彼女のお父さんもきっとそれを
のぞんでいるはずだから。そんな気持ち
からでした。

そして、Sちゃんは、本当にその
次の日から、それまでとまったく同じように
リトルに来て、普通にいつもの席に座り、
普通に勉強を続けたのです。

もし、私が彼女だったら、こんなことが
できるだろうか・・・

私はこんな時でもじいっと耐えて健気に
努力を続ける彼女の姿に感動し、どうか
合格して欲しいと祈るような気持ちだった
のです。。。

Sちゃんから、
「先生、慶應に合格してました!!」
と電話がかかってきた時、やったー!
やったー!と言いながら、私は泣きました。

Sちゃん、本当におめでとう。
最後まで頑張ってくれて、ありがとう。

慶應義塾大学 明治大学 青山学院大学 中央大学 津田塾大学 他 合格
O.S さん (大分上野丘高校出身)

 この春、私は第一志望だった慶應義塾大学に合格することができました。念願だった合格体験記を書くことができて、今やっと合格した実感が湧いています。
もしリトルアメリカに出会っていなければ、
慶應に合格することはもちろん、慶應を
目指して頑張ることすらもおそらくなかったと
思います。

 私は中学生の頃から東京の大学に進学
することが目標だったのでその可能性が
広がればと思い、進学先の高校を選び
ました。しかし、勉強量が周りと比べて
少ない訳ではなのに、入学時をピークに
そこから思うように振るわない成績。
 その原因は明らかで、「覚えること」が
苦手なことによる効率の悪さでした。

 このままの成績で行ける大学に
なんとなく行っていいのだろうか、今の
勉強の仕方を続けて成績が上がる時が
いつか来るのだろうか、そう悩んでいる時に
リトルの先生に進路について相談しました。
その時に先生が「じゃあ慶應だね」とサラッと
仰ったのですが、当時の成績からして、
慶應を目指そうだなんて考えたことも
なかったので心底驚きました。そして、
まだそんな可能性があると思えたのは
嬉しかったし、合格していった先輩たちを
みていて、偏差値を10以上もあげることは、
リトルで頑張ればきっとできると思ったので
ここで頑張ることを決めました。

 覚えることが苦手だった私ですが、
先生たちが覚えやすいように魂を込めて
作ってくださった教材でのおかげで、覚える
力を徐々につけることができました。一日中
リトルの単語帳を見て、高校の休み時間も
リトラーとひたすら単語を覚えていたのも
今となっては良い思い出です。また、
1週間の計画が達成できたかを確かめる
週末テストも不安だらけの浪人生活の中でも
目標を見失ったりすることがなかったので、
自分にとても合っていました。

 それでも大学受験はこれまでにないほどの
膨大な量を覚えなくてはなりません。リトルで
かなり覚える力がついた私も特に日本史は
最後まで苦労しました。
 何度も心折れそうになったり悔し涙を流した
こともありましたが、リト浪や後輩のリトラーの
みんなが常に良きライバルでいてくれたこと
や、先生方が熱心に指導してくださった
おかげで最後は慶應B判定まで上げることが
できました。
また、慶應に合格したリトルの先輩に
「リトルで頑張ると決めたなら、最後まで
 リトルを信じて頑張るんだよ」と言われた
言葉も浪人生活を過ごす上で私の支えの
一つとなりました。

 確かに勉強ばかりの一年でしたが、そんな
中でも遠足に行ったり、みんなで料理をしたり、
お寿司を握ったり、他の予備校ではあり得
ないことも経験できた楽しい浪人生活でした。
 
 浪人で得たことは、一度心に決めたことを
決して諦めない力です。ここに書き尽くす
ことはできないほどたくさんのことがあった
一年でしたが途中で諦めることなく、
先生方を信じて頑張って本当に良かったと
心から思います。

 リトルで過ごしたこの一年は私の人生で
大きな礎となりました。

 私を変えてくれたリトルアメリカの先生方、
私の選んだ道を尊重してくれた父、
いつも支えてくれた母に心から感謝してい
ます。本当にありがとうございました。